夜明けの地平線

 光。初めは小さな光だった。
 アンナの強い光の奥に見え隠れする、微かな光。
 それが、いつからだろう。アンナに取って代わり、強烈に輝くようになったのは。
 漆黒の闇でしか生きられないヨハンにとってそれはただ眩しく、道しるべの光のようであり、あるいは己を焼き殺す光のようでもあった。


 ――Dr.テンマ。
 その彼が、今はヨハンと共に暮らしている。


 朝起きて朝食を摂り、昼は家事をして夜にテンマの帰りを待つ。今は毎日その繰り返しだ。
 医師であるテンマは生活も不規則で、多忙な日々を送っている。挨拶を交わし食事を共にすることもあれば、一日顔を見ない日もある。


 テンマが休日の時は彼が食事を作ることもあるが、大抵はヨハンの担当だった。ヨハンにとって食事はただの栄養補給であり、淡々とこなす仕事の内のひとつに過ぎない。幸い、二人とも料理の好き嫌いなどはなく、今のところこれといった問題は起きていない。


 ヨハンはこれまで多くの人間と生活を共にしたことがあり、他人との同居は心得ている。基本は付かず離れず、だ。テンマとの距離感を見誤り、この同居生活を手離すことだけは絶対に避けたかった。



 昏睡状態から目覚めたあの日、警察病院を抜け出したヨハンは母の許へと向かった。白昼夢のようにテンマに問いかけた言葉をその胸に抱いて。
 彼女はいとも容易く見つかった。
 記憶では美しかった彼女も今は鳴りを潜め、すでに年老いた姿になっていた。だが、その青い目だけはヨハンの母であることを示していた。


 木陰で様子を窺っていると、不意に目が合った。すると彼女は目を瞠り、か細い声で呟いた。以前に名乗っていた、どの名前とも異なる名前。
 ――ヨハンの本当の名前だとすぐに理解した。


 会う前は訊きたいことが山ほどあった。殺すことも考えた。だが、ヨハンは頷くとそのまま無言で引き返し、彼女とはそれきりになった。なぜかは自分でもわからない。ただ無性にあの光の許へ帰りたくなったのだ。


 ――Dr.テンマ。
 親以上の存在であり、今となってはヨハンの生殺与奪さえ握っている男の許へ。


 それはヨハンにとって、大きな賭けだった。
 彼と共に過ごすための布石を打ったのだ。Dr.テンマとルーディ・ギーレンの前に姿を現したのも、病院に移送されればヨハンの処遇を巡って上層部が対立することも、すべては想定済みだった。ただある一点を除いては。


 Dr.テンマ。彼がどう出るのかだけはヨハンも計算できなかった。
 ――そして賭けに勝ち、今の状況をこの手に掴んでいる。
 決してこの日々を失うわけにはいかない。たとえどんな手段を使っても、絶対に。



 同居を始めてひと月経った頃。
 4月になり、街は春の兆しを見せているが、二人の生活は普段と何も変わらない。テンマが病院に勤務する間、ヨハンはいつものように家事に専念していた。


 ベッドのシーツを交換しようとテンマの部屋に入ると、机の上に置いてある本がふと目に留まる。どうやら日本語で書かれた本のようだ。テンマの所持する本はもっぱらドイツ語のものが多い。珍しさに興味を引かれたヨハンは本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。


 ドイツ語やチェコ語以外の外国語――英語やフランス語ほどではないが、ある程度なら日本語も理解できる。まだ少年だった頃、日本人のDr.テンマに関心を寄せたヨハンは、彼のことを調べるために日本語も習得していたのだ。


 本は何てことのない、短編小説だった。現代日本を舞台にした日本人が主人公の小説で、ありふれた日常を描いている。面白みには欠けるが、日本人特有の生活様式や食事に関する描写もあり、ヨハンは知的好奇心をそそられた。


 本来の目的であるシーツの交換を終え、ヨハンは本を借りてテンマの部屋を出る。自分の部屋に入り、机の前に腰を下ろすと、再び読書に没頭した。



「ただいま」
「おかえりなさい。食事できてますよ」
 日も落ちた頃、夕食を作っていたヨハンは帰宅したテンマを出迎える。ドアを閉めたテンマは足拭きマットの上で革靴を脱ぎ、室内履きに履き替えた。日本では通常、家では外出用の靴を履かず、素足になるそうだ。同居を始めた時にルールを決め、二人とも室内用のものを履くことにしていた。
「うん、だいぶ見慣れてきたな」
「何がですか?」
「その格好がだよ。最初は君がエプロンなんて意外だったなあ」
 黒のエプロンを着用しているヨハンをテンマは感慨深そうに眺め、苦笑する。すると辺りを見回し、鼻を利かせた仕草を見せた。
「ん? そういえば何だかいい匂いがするような」
「ああ、今日はいつもと違う料理を作ってみたんです。今ちょうど煮込んでて」
「え、そうなのか。ちょっといいかい」


 テンマはキッチンに入り、電気コンロにある鍋の蓋を開けた。途端に湯気とスープの香りがその場に強く立ち込める。大きな鍋にはソーセージやじゃがいも、レンズ豆と野菜を煮込んだスープ――アイントプフがぐつぐつと音を立てていた。
「うん、これはうまそうだ。でも珍しいな、夜にスープなんて」
 ドイツでは一般的に、朝食と夕食は冷たい食事しか摂らない。料理に特別こだわりのないヨハンも、今まで夕食はパンやチーズ、ハムなどシンプルなものばかり食卓に出していたのだった。
「日本では夕食でも温かいものを食べるんでしょう? それに倣って今日は日本式に変えてみたんですが」
「へえ、それはありがたいな。でもヨハン、どうして君がそれを?」
 テンマが不思議そうに尋ね、ヨハンは正直に理由を答える。
「すみません、先生の部屋にあった日本の小説を拝借しました。何か参考になると思って」
「え、あ、そうか。本か。……ん? 君は日本語もわかるのか」
「ええ、少しは」
「そうなのか。あの本は日本人の同僚が貸してくれたんだよ。面白いからって。君がそんなに気に入って読んだのなら、借りてみてよかったかな」
 そう言ってテンマは小さく頬を緩めた。


「うん、おいしい。やっぱり汁物は身体が温まるな」
「それはよかった。じゃあこれからも日本式で作りましょうか」
「え、いいのかい。それなら助かるよ。ドイツ式ばかりじゃ、ちょっと物足りなかったんだ」
 テンマが申し訳なさそうに笑う。
 夕食のスープはテンマの口に合ったようだ。食が進んだようにぱくぱくと食べている姿を見て、ヨハンは作ってよかったと思う。その一方、ある疑問も湧いてくる。


 ――彼は、怖くないのだろうか。


 ヨハンの作るものを、なぜそんな風においしそうに食べるのだろう。
 毒殺される可能性を少しも考えていないのだろうか。今まで何人もの命を奪ってきたヨハンを前にしているのに、なぜ……?


「ヨハン、どうした? 食欲がないのか」
「いえ」
 テンマの意図が読めない。そんな不安を隅に追いやるように、ヨハンは再びスプーンを口に運んだ。



 少し前からのことだ。夜の帳が下りるたび、ヨハンは夢を見るようになった。
 アンナ。母。怪物。絵本。炎。影。雨。血。死体。終わりの風景。そして、あの光――。
それらがない交ぜになってヨハンを襲い、最後は必ず皆ヨハンを置き去りにする。あの三匹のカエルに独り残された瞬間をまざまざと見せつけてくる。


 今日も夢にうなされ、目を覚ますと既に時間は真夜中を過ぎていた。汗で額に張り付いた前髪を拭うと、深く息を吐く。徐々にだが、ひたひたと侵食するように、近頃夢の感覚が長くなっている気がする。
 以前――自分がまだ怪物だと信じていた頃、こんなことはそうなかった。悪夢が特に酷くなったのは、ここ最近だ。自ら望んで得た生活なのに、これはどういうことなのか。


 このまま横になってもすぐに眠れそうもなく、ヨハンは読みかけの本を手にしてキッチンへと向かう。冷えた水で一息つくと、居間のソファに腰を沈めて本を読み始める。
 それからしばらく経った頃。テンマも水を飲みに寝室から起きてきた。こんな時間に寝もせずに本を読んでいたヨハンに、驚いた顔を見せる。


 浅い眠りと夢を繰り返し、徐々に疲労していく身体はあまりに正直だ。テンマに弱音を吐いてしまうほど自分は疲れていたのかと、今になって自覚する。


 テンマは優しい。彼を翻弄し、ずっと苦しませてきたヨハンに対してもそれは変わらない。
 医師である彼は、結局ヨハンを殺すことができなかった。だが、生かしてしまったという義務感も間違いなくあるのだろう。ヨハンはそれに付け込んだ。だから今こうして監視という名目でテンマはそばにいるのだ。


「ずっとそばにいると約束するよ。だから……もう大丈夫」
 不本意にも弱さを吐露したヨハンを、テンマは子供をあやすような言葉で落ち着かせる。さらに睡眠導入剤をヨハンに渡し、ベッドにまで付き添うという。


 どうしてテンマはここまでしてくれるのだろう。だが、たとえそれがただの哀れみでも、ヨハンはどうしようもなく縋りついてしまう。だからこそ、怖い。永遠なんてものはない。すべては死に行くためにあるのだから。



 ある晴れた日の午後。テンマが突然ピクニックに行こうと言い出した。どうやらヨハンがずっと家にいることを案じていたようだ。公園に二人だけでピクニックなどヨハンには冗談にしか聞こえなかったが、真剣な顔を向けてくるテンマにとりあえず従う。


 二人でサンドイッチを作り、車に乗って街の大きな公園へと向かう。木陰にシートを敷いて二人並んで食べるなど、ヨハンにしてみればピクニックの真似事をしているとしか思えなかった。
 だが、隣で満足げに頬張っているテンマの姿を見ると、来てよかったとも思う。一緒に暮らし始めてから、こんなに楽しそうなテンマを見たことがなかった。


 周囲には同じようにピクニックを楽しんでいる家族連れが多い。まだ歩き始めたばかりの歳の子供が覚束ない足取りで芝生を歩き、傍らの両親らしき男女が笑顔で声をかけている。
 そんな風景を何とはなしに眺めていると、隣から微かな寝息が聞こえてきた。足を伸ばして仰向けに横たわるテンマからだ。最近は仕事も忙しく、疲れていたのだろう。すぐには起きそうもない。


 ヨハンはじっとテンマを見つめてみる。――無防備な寝顔。ヨハンが近くにいるにもかかわらず、テンマの寝顔はあどけないほどだ。それくらいには自分は許されていると思っていいのだろうか。
 相変わらず、テンマはよく眠っている。風になびく黒髪。呼吸でゆっくりと上下に動く胸。僅かに開いた唇。それらを見ているうちにふと湧いてくる、ある感情。


 ――触れたい。


 手を伸ばし、頬に触れようとして、一瞬、躊躇する。


 ――できない。


 いまやヨハンにとってテンマは聖域だった。汚すことのできない光そのものだった。血で汚れたこの手で触りたくない。伸ばしかけた手を引くと、代わりに空を掴んだ。


 仕方がないので、家から持ってきた文庫本を読むことにする。テンマが日本人の医師仲間から新しく借りてきたという、以前とは別の小説だ。
 晴れた日の公園で眠るテンマのそばで読書をする……。そんな些細なことも、今までの人生を思えば、ヨハンにとっては幻のような出来事だ。こんな穏やかな時間がずっと続けばいい。そう思いながらも、気づけばもう夕暮れ時だった。


 ようやく起きたテンマと二言三言交わす。すると突然、テンマの携帯電話が鳴った。どうやら医者……MSFの関係者らしい。テンマの表情は一転、明るくなり、会話もよく弾んでいる。昼間の食事の時も楽しそうにはしていたが、その表情は全く違う。ヨハンには決して見せることのない顔だ。そうして思い知る。ヨハンが彼の特別にはなり得ないということを。


 それにMSFだ。テンマはMSFに戻りたいのだ。MSFに参加した彼が医師として充実した日々を送っていたことはヨハンも知っている。
 だがヨハンの存在がそれを妨げているとしたら。否――今更離れることなど許さない。監視の名目でしかなくとも、そばにいられるのならそれでいい。


 “ずっとそばにいると約束するよ。だから……もう大丈夫”


 几帳面なテンマがすぐに約束を反故にするということはないだろう。だが、永遠などあり得ない。今の生活もずっと続けることなど不可能に近いのではないか。
 話し終えたテンマが電話を切り、帰り支度を始めてからも、不安ばかりがヨハンを支配していく。それを煽るかのように、いつしか夕闇が迫っていた。



 その日は朝から冷たい雨が降っていた。
 ヨハンは窓際に凭れながら、明かりもつけず、窓を叩く雨をただ眺めている。雨は、否応なく過去の記憶を呼び覚ます。


 怪物に怯え、アンナに撃たれたあの夜。何も知らないテンマに“処刑”を見せた再会の夜。そしてあのルーエンハイム――。
 やがて追憶は、なぜ自分はここにいるのだろうという思いに行き着く。テンマはヨハンにとって親のようであり、また親以上の存在でもあった。だから彼に執着し、今の関係を得たのだ。


 では、テンマにとってヨハンは何なのだろう。
 監視が必要な危険人物? 母に捨てられた哀れな子供? 二度も執刀を担当した、責任を負うべき患者? それとも……影のような存在?


 そう、ハイネマン院長を殺害したのはテンマの憎悪が発端だったと告白したあの夜――あれからテンマがヨハンを影のように思っていたことを、ヨハンはよく知っている。だからこそ、彼はあれほどまでにボロボロになってもヨハンを追い続けたのだ。


 自責の念。ヨハンに対する感情が一番強いのは、それだろう。普通の親が子に向ける愛情のようなものを、テンマが微塵も抱いていないことくらい、わかっている。


 闇社会にいた頃、誰もがヨハンを崇拝した。蟻を弄るように、誰が何を考えどう動くのかもすべて把握できた。養父母に対しても、必ず彼らが気に入る子供になれた。
 それなのに、あのDr.テンマだけは意のままにすることがどうしてもできない。
 理解不能な彼の行動。制御できない自分の感情。胸のざわめき。そばにいればいるほど募る不安――。


 こんな思いをするのなら、いっそあの時テンマの手で殺してくれればよかったのだ。そうすればテンマの正義は崩れ、ヨハンはテンマの中で特別な存在になり、テンマは一生ヨハンの影に囚われたままになる。あの絵本の最後のように、たった一人になってもヨハンだけを――。


 そう思ったところで、部屋のドアからノックの音がした。テンマだ。
「もうすぐ君の誕生日だろう? プレゼントに何か欲しいものはあるかい?」
「欲しいもの……?」
 驚いた。それは今まさに考えていたことだ。
「ああ。君の望むもの。私じゃ何がいいか思いつかなくてね」


 これから口にする言葉をテンマが望んでいないのはわかっていた。彼はショックを受けるだろう。だが、これは本心だ。今一番望んでいることが、テンマに殺されることと言ったら、彼はどうする?


「僕が望むもの……僕は、今でもあなたに殺されたいと、……そう願っているよ」
 そう言うと、テンマは予想通り、ひどく傷ついた顔をした。……ぞくぞくした。今この時だけは、テンマの感情が負のベクトルであったとしても、ヨハン一人に向いているのだ。


 テンマはしばらく絶句した後、窓際に立つヨハンに怒りの表情を浮かべながら詰め寄った。右手を振り上げ、殴られると思ったその瞬間。ヨハンの頭をテンマの肩に引き寄せた。
「……私は君のそばにいて名前を呼ぶことしかできない。それでも、君は……生きていかなければならないんだ」


 ……やはり、テンマだ。彼はどこまでも正しく、哀しいほどに優しい。闇に生きるヨハンとは違う、まばゆい光そのもの――。


「僕はずっとあなたに殺されるのを夢見ていた。ただそれだけが僕の望みだった」
 ヨハンは繰り返し言う。罪深きヨハンを裁けるのは、テンマただ一人だけなのだから。
「……君は生きなければならない。……だから……だから、そんなことを言うな」
 つらそうな声で、そう呟くテンマ。長い旅の末、テンマの出した答えは、ヨハンを生かすことだった。もしかしたら、それこそが最も重い裁きなのか。


 ヨハンの後頭部を押さえる手に、いっそう力が込められ、身体もさらに密着する。
 ……触れても、いいのだろうか。
 ためらいがちに両手をテンマの背中に回してみる。テンマの身体はとても温かかった。……本当は、ずっとこうしたかったのかもしれない。
 ヨハンはさらに言葉を続ける。


「でも矛盾しているのかもしれない。ずっとこうして、あなたのそばにいたいとも思っている。……先生とこうしているの、嫌じゃない」
 ヨハンは顔を肩に擦り寄せる。確認するかのように、何度も何度も。その様子にテンマは気が削がれたのか、猫みたいだと独りごちる。その声に顔を向けるとちょうど彼と視線が合う。
 間近で見る黒い瞳。闇の色をたたえるその目がヨハンは好きだった。もう少し長く抱擁していたかったが、テンマは肩を掴むと身体を離してしまう。


 死ぬこと以外でもう一度欲しいものを考えておくようにと念を押され、何でもいいとヨハンは答える。率直な気持ちだったのだが、テンマは不満なようだ。それならばと、ふと記憶によぎるアンナへのメッセージ。


 “君に世界中で一番美しい花を贈ろう。君を花で埋めつくすために僕は生まれた”


 世界はすべてアンナのものだった。花も草木も大地も何もかもすべて。ヨハンはアンナのためだけに存在していた。けれど、そうではなかった。だから今度はヨハンが美しい花を望もう。


「花をください。大きな花束を」
 そう告げると、テンマは何度か瞬きした後、笑って頷いた。彼の嬉しそうな笑顔に、自然とヨハンの顔もほころんでいた。



 そうして再び迎えたヨハンの誕生日。
 夕食の支度をしているヨハンに、テンマの帰宅を知らせるチャイムが鳴る。玄関を開けると、テンマが大きな花束を抱えて立っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。はい、これ。誕生日おめでとう」
 テンマは薄いブルーと紫、白を基調とした花束をバースデーカードと共にヨハンに手渡す。両手で受け取ると爽やかな香りが鼻をかすめた。
「ありがとう、先生」
 ヨハンがそう言うと、テンマはにっこり微笑んだ。ヨハンもつられて笑う。テンマの笑顔には周囲の人間を無理やり引きずり込む力があるのではないかと、ヨハンはこの間から密かに思っている。


「あ、今日はケーキもありますよ」
「ああ、昼間に買っておいたのか。あの駅前の店かな?」
「いえ、僕が家で焼きました。先生の口に合えばいいんですが」
「え!?」
 ヨハンの前を歩くテンマが勢いよく振り返る。
「へえ、君がケーキを……いや、うん、それは楽しみだな」
 テンマは意外そうな顔でヨハンをしげしげと見ながら呟いた。


 日本は違うようだが、ドイツでは誕生日を迎えた当人がケーキや手料理を振る舞い、パーティを開く。ヨハンも子供の頃、多くの養父母たちの許を転々とするたびにそんな誕生日を幾度となく過ごしてきた。
 養護施設でボランティアの経験があるヨハンはケーキ作りも慣れたもので、この日もキルシュ酒のチョコレートチェリーケーキ――シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテを難なく作り終えていたのだった。


 二人はテーブルに着くと、普段よりも手間をかけた食事を味わう。ヨハンが日本式の温かい夕食を取り入れてから以前のような簡素な食事は減っていたが、今日はそれにも増して豪華だ。二人は食後のケーキも綺麗に平らげた。


「それにしても君の料理の腕はすごいな」
「そうですか? レシピ通りにやっているだけですが」
「じゃあ今度は試しに日本の料理を作ってもらおうかな……あ」
 テンマは不意に思い出したように、一枚のカードを取り出した。
「ニナからのバースデーカードだよ。ポストに入ってた」


 差出人は「ニナ・フォルトナー」。
 裏を見ると、美しい運河の風景写真だった。大きな運河に沿うように建物が続き、多くの船が往来している。添えられたメッセージによれば、イタリアのヴェネツィアに休暇で来ていたらしい。
 ニナ――アンナとは今も時折メールでやりとりをしており、ヨハンも彼女にバースデーカードを贈っていた。
「ニナも元気そうみたいだね」
「ええ、そうですね」


 以前のヨハンはアンナを分身としか捉えられなかった。それが違うとわかった今、わだかまりが消えることはないだろうが、いつか笑顔で会える日が来るのだろうか。
 妹に思いを馳せながら、ヨハンはしばらくカードを見つめていた。


 その夜のこと。
 食事の後片づけを済ませてキッチンから戻ったヨハンは、居間のソファでテンマが寝ていることに気がついた。横になってくつろぐうちに、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。もしかしたら夕食のワインの量が多かったせいもあるのかもしれない。しかし5月とはいえ、夜に薄着でいては風邪を引きかねない。


「先生? 部屋で寝ないと風邪を引くよ」
 仰向けで眠るテンマに声をかけても一向に起きる気配がない。とりあえず身体が冷えないようにタオルケットを上に掛ける。安らかな寝顔を見ていると再び湧きあがる、小さな衝動。


 ――触れたい。


 腰を屈め、頬を撫でてみる。そっと、軽く触れるように。部屋の照明を遮る形になり、ヨハンの影がテンマを覆う。だが、それでも彼は目を覚まさない。もう一度触れる。今度はもう少し長く、肌の感触を確かめる。
 以前は自ら進んでテンマに触れることができなかった。それなのにこうして可能になると、むしろその欲望がますます膨らんでいくのがわかる。


 目に入るのは、テンマの唇。ヨハンはさらに屈んで、その唇に自らの唇を重ねた。ほんの一瞬、触れるだけの静かなキス。テンマは眠ったまま気づかない。


「……おやすみなさい、Dr.テンマ」
 ――そう、これは胸にしまっておくべきもの。この同居生活を続けていくには、彼に知られてはならない。誕生日の、ヨハンだけの秘め事――。

<了>

あとがき


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